広島県福山市 鞆の浦 サイクリング

広島県福山市 鞆の浦

サイクリング

福山駅~鞆の浦 
片道:約13~14km 
往復:約26~28km


地蔵院
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鞆城三の丸の石垣 1-1
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鞆城三の丸の石垣 1-2
鞆城は毛利氏によって築かれ、関ヶ原合戦後に安芸・備後の領主となった福島正則が城郭を整えました。本丸・二の丸・三の丸と階郭式になり、道路をはさんで北側にある地蔵院の石垣が二の丸の石垣にあたります。この三の丸の石垣は、病院建築工事時にここから23m南側の位置で東西に確認され、取り除かなければならない部分のみ、向きを変えて現在の位置に移築したものです。石垣の刻印は本丸石垣のものと同一です。本来の石垣のラインは、当時の海岸線にあたり、鞆城が軍船を係留できる海城であったことを証明できる貴重な遺構です。
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鞆の港
瀬戸内の中央に位置する鞆は内海の潮の干満の分岐線にあたります。
内海を航行する多くの船はこの潮に乗っての航法であったので「潮待ち」をここでおこないました。こうしたことが多くの伝説を生み、万葉集に歌われることとなり、中世から近世にかけて歴史上の舞台として度々登場してきたゆえんであるといわれています。
この船着場の雁木は文化八年(1811年)に、常夜灯は(安政六年<1859年再建>)に造られたもので、いずれも花崗岩製です。なお、船着場に臨む建物は背後の保命酒問屋旧中村家(県史跡鞆七卿落遺跡)に関連するものです。
明治以降、鉄道の開通、汽船の就航等により「潮待ち」をする船もなくなってしまいましたが、今日でも、当時の港の活況を彷彿させる港湾施設がよく残っています。
沖に突出する波止・常夜灯・雁木とよばれる階段状の船着場・港に面している豪商、廻船問屋とその土蔵等々、江戸時代の港町鞆の繁栄ぶりを示すものです。
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太田家住宅・太田家住宅朝宗亭鞆七卿落遺跡
維新の夜明けも近い1863年(文久3年)8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公家は、公武合体派に追われ都落ちをしました。一行は、ここ旧「保命酒屋」に立ち寄り、その時、三条実美は保命酒(竹の葉と表現)をたたえる和歌を残しました。主屋の太田家住宅と向いの別邸「朝宗亭」は、18世紀中頃~19世紀初期の建物であり、共に国の重要文化財に指定されています。
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保命酒屋
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夾明楼上り口
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円福寺
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大可島城跡
1342年(康永元年)四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時に、陸続きとなり現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。現在の本堂は、昭和初期に再建されたものです。
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弁天島、仙酔島
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ねこちゃん
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福禅寺 対潮楼
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弁天島、仙酔島
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福山市営渡船のりば
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龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅
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小烏神社 1-1
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小烏神社 1-2
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小烏神社 1-3

小烏神社、小烏の森古戦場
<小烏神社>祭神は小烏大神と天目一箇神といい、鞆鍛冶の氏神です。奈良時代から船具加工が始まり南北朝・室町時代には多くの刀鍛冶がいました。伝統ある鞴祭(鉄工祭)は、12月第1週の土・日曜日に行われています。

<小烏の森古戦場>1349年(正平4年)足利尊氏の弟直義の養子直冬は、中国探題として鞆の浦大可島城にいましたが、反逆を疑われ尊氏の中央軍とここ小烏の森で戦いました。しかし、直冬軍は敗れて九州へ逃亡しました。
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鞆の津ミュージアム
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